神道の究明を志して六十年、
日本の古代史の原点「先代舊事本紀」(神代皇代大成経)に光をあて、
豊かな感性を駆使して、”大和ことば”が持つみやびな響きで、
解き明かした解読者・須藤太幹を中心に現代に蘇った古代の豊かな教訓を、
いまに生かし、古代の”人間学”を学んでおります。

 

 

先代舊事本紀研究学会の成り立ち>

 

先代舊事本紀研究学会の原点は、昭和四十八年東京・原宿の、東郷神社管長のご好意で、社務所の客殿を拠点として、研究同好の諸氏が定期的に集い,舊事紀研究の勉強会から始まりました。

昭和五十一年、宮東孝行の解読による「先代舊事紀大成経(一)」鷦鷯本(ささき本)が、先代舊事紀研究学会の代表須藤素粒(太幹以前の号)の、「発刊に当たって」の言葉の主旨に基づいて刊行されました。

その反響の大なる事もあって、昭和五十六年、そうそうたる関係者の賛同を得て,宮東斎臣(孝行の号)編「鷦鷯伝(ささき伝)先代舊事本紀大成経」を、先代舊事本紀刊行会より発刊。編者の言葉に続く、一連の著名な関係諸氏の「先代舊事本紀」に対する所見の一端を、当該書より引用、抜粋し紹介させて頂きます。

 

元皇族・貴族院議員     賀陽邦壽(かや くになが)

 「推古天皇は"此の経(ふみ)の如何に重大なイミを持つものであるか"に対し、その詔の中に、"今、是の伝定まって、録は得有って(ふみはよきことのみあって)、失無し(わるきことなし)、神道、皇道悉く尽くして余(あますところ)無し。 誰(ひとり)此の経のみ正真(まこと)のものにして他(よそ)の文は真(まこと)に非ず。天皇の一宝にして天下の一命なり"」と教えておられると聞き及んで居る。此の大経は膨大な上に難解な処から一般の学者から敬遠されて今日に至ったものである・・・・・・・・

 

元立教大学総長、法学博士  松下正寿(まつした まさとし)

 徳川時代に新井白石、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長、平田篤胤などによって偽書と認定され、それ以来本書は何らの検討も加えられずに「偽書」と信じられて今日に到っている。権威ある学者が偽書であると認定すれば、一般人がそう思い込むのは当然。学者の任務は真理を探究することではないか・・・・・・

 

元皇大神宮大宮司      二条 弼基(にじょう たねもと)

 最近のある新聞で、「我が国は物で栄え、心で亡ぶ」と言う、誠に憂慮されるべき言葉を述べているのを読んで、私も全く同感で正に日本の現状を端的に示す ものと受け止めております。又英国の歴史学者、アーノルド・トインビー博士 は、ある書物に「歴史と伝統を忘れた民族は亡びる」と書かれています。 舊事紀の内容は推古天皇の時代に聖徳太子を中心に纏められたもので、(中略)我が民族が心で亡びることなく精神の面でも大国になることを望んでやみません。

 

元日本大学総長、医学博士  鈴木勝(すずき まさる)

 古事記、日本書紀と共に、日本における三大聖書、三大神書と並称されながら も、在る時は偽書と無視され、またある時は歴史の底に、埋没されて来た該書に対し、(中略)「この書を閣(さしおい)て他に権威ある神典は無い」と、宮東先生は論断。(中略)西から東へ吹いていた文化の風が、東から西へと遷りつつあることは、歴史的現実と言えましょう。

 

編者、法学博士、神道博士  宮東斉臣 (みやとう さいしん)

 この書を以って、平安朝の作であると言い、或いは物部家のカムバックを志向した依己の偽書と言い、その評の如何に見識の乏しかりしことか。 殊に潮音の作と誣説(ぶせつ)する学者の言に至って沙汰の限りであり、挙げて偽書説に短見者を誤らせた、その道の権威と謳われる人にして、日本民族の将来を思わざる浅識に評すべき言葉もない。

 権威者を以ってしても「舊事紀」全体についての理解は如何に乏しいものであったかと言う事が判る。それは秘されていたものだけに、十巻本、三十 巻本、七十巻本の全部を机上に揃えてみることの、不可能であったことを物語っているのである。(中略)それを解読するには、年余の歳月を要するものである点、生涯をかけてもなお及び難い学問的蘊奥(うんおう)を、極められてあるのに、しかも発禁、偽書と言われている点、これを手にすることは、出世や生活のことを思う人には、研究上の障害となっていたことを先ず 理解してみる必要がある。 (「先代舊事紀大成経(一)」(鷦鷯本)宮東孝行解読 ”「先代舊事紀大成経」は日本学探求の宝庫”より一部抜粋 ) 

 

 

以来、舊事紀研究は脈々と続くこと三十年、此処に「先代舊事本紀」(神代皇代大成経)の巨編が、会長須藤太幹によって流麗な"大和ことば"で解読され、 現代日本の将来への道しるべとして、あまねく、広く世に伝えるため、日の目 を見ることになった、と言うことです。難解な古文の解読に挑戦した、須藤太幹の並々ならぬ解読に対する熱意と、信念をご理解いただける事かと思います。 先代舊事本紀研究学会も今後、とどまる事無く延々と、会長須藤太幹を 中心に、研究者の輪を広げ、未来へと進み続けることと思います。

 

会長須藤太幹は元皇族の梨本宮守正王の第一王女、方子(まさこ)様とは 昭和五十六年より親しくご交際を重ね、ご子息の玖様には昭和五十年より八年間に亘り「先代舊事本紀」のご講義をなされて居りました。

方子様は当初、昭和天皇のお妃選びの候補の、お一人に挙げられたこともありましたが、大正時代の日本の国策、「日鮮融和」の名の下に、李王朝最後の皇太子、英親王・李王垠殿下と大正十一年結婚。昭和四十五年李王垠殿下の死後、夫の遺志を継ぎ、障害者福祉事業に余生をささげ、社会福祉法人「明暉園」の運営に献身。韓国では、気さくで明るい性格と合せ、親しみと尊敬を集めておりました。数奇な運命をたどりながら、日韓のはざまに七十年。平成元年 八十七歳で逝去されました。

 

 

方子様の先代舊事本紀についてのお言葉

「ご出版の一日も早きを祈ります。和を以って貴しと為す。此の言葉は、聖徳太子の、憲法に厳然です。息子、玖の説明により、先代舊事本紀は、日本書紀の原本なる事を知りました。世の学者が、偽書と謂ふ此の書物を、存在する限り、偽書か、真書か、読まねば判らぬと、敢然、解読に挑む人、須藤太幹氏に遭ひました。玖は申します。此の舊事本紀は、将に日本の帝王学その物であると。人と人、国と国、一つ空気の中で、一つの水を飲んで居るのです。自我の無い、世界大和を希みます。」

 

 

梨本宮守正王・長女 (なしもとのみやもりまさおう・ちょうじょ)
元、朝鮮皇太子、李王垠殿下妃、(もと、ちょうせんこうたいし、りおうぎんでんかひ)
李・方子(り・まさこ)

 

 

方子妃殿下逝ひて十三年、あれ程に楽しんでお待ち頂ひた「先代舊事本紀」、 今、茲に立派な書物になりました事、ご霊前に御供え致したいと思います。

須藤太幹

 

 


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first Updated on Dec 25th, 2001