大巳貴命(おおなむちのみこと)は、大(ふとき)

功(いさほ)を有(たも)つ神なり。

 

「先代舊事本紀」 地祇本紀より

 

漢字の原型は、大和の葛城山で創らる。

『八雲立つ、出雲八重垣、妻籠に、八重垣造る、其の八重垣を』 服狭雄尊(すさのほのみこと)は、大蛇(おろち)なる禍根を退治し、脚摩乳(あしなつち)、手摩乳(てなつち)の娘、奇稲田姫(くしいなだひめ)に、この歌を詠み贈る。 奇稲田姫(くしいなだひめ)は、欣んで返し歌したまふ。『日も暮れぬ、遮日遮雨(さひさめ)の戸の、早閉じよ、心の闇に、吾、迷(まど)はす勿(な)』

斯くて結ばれたか、御子(みこ)を生(な)す。 事八十神(ことやそのかみ)と大国主尊(おおくにぬしのみこと)である。 この二柱の神は、対照的な、悪る神と、賢き神に成長する。 兄神の事八十神は、弟の大国主を責めに責め苛(さいな)む。

大巳貴神(おおなむちのかみ)と謂う大国主尊は、耐えに耐え、遂に父、服狭雄神に 代わり、大八州国(おおやしまのくに)の統治者と成り、少名彦名命(すくなひこなのみこと)、久延彦命(くえひこののみこと)の協力を得て、豊かな国造りに成功する。

然る時、老いた天照大神は大国主尊の兄神に当たる、天忍穂盈水尊(あめのほみみのみこと)にその統治権を譲れと仰せらる。大国主尊は厭(いな)む理由も無く、仰せに従ふ。

斯かる時、天照大神は、言の葉を創れ、文字を創れと、四十七言(しじゅうななこと)を天八意命(あめのやこころのみこと)、大国主尊に授ける。

統治権を高天原に献上した大国主尊は、無役になった事とて、文字創りに専念する。 神代文字をつくり、玄界灘の壹岐の国、対馬の国にては、アヒル文字をつくり、朝鮮に渡っては、朝鮮文字をつくるのである。

こうした于(ある)日、 北の方よりの来(まいけ)る。 日(のたまは)く、 「汝(いまし)は隠れて物を費換(そこな)ふ。然れども、物(いきもの)の始めにして来至(まいけ)り、免(ゆるし)置く面而(のみ)。」

次にの来詣(まいけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は功(いさほ)の有り、能く(よく)人々を助くる者なり、賞(め)で用ひ養(ひた)し置(お)かん。」

次にの参(ま)ひ来(け)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は害(そこなひ)の有りて功(いさほ)の無し、此の国に住(とどま)る可(べか)らず」、即ち捕らへて殺し、以って小(いとけな)き物(いきもの)と為し、勅(みことのり)して日(のたまは)く、「汝(いまし)は能(よ)く鼠を制(おさえ)よ。」

東より、の来(まひ)く、日(のたまは)く、 「汝(いまし)は、害(そこなひ)の無し。能く恣(ほしきまま)に住(とどまる)可(べ)し。」

次にの来(まひ)く、見(みそのは)して日(のたまは)く、 「汝(いまし)は霊物(あやしきもの)なり。大(ふとき)き功(いさほ)を有(たもて)る物(いきもの)なり。又、損害(そこなひ)なく、能く天下(あめがした)を澤(うるほ)す。住(とどま)る随(まにま)に相任(あいまか)せん。」

次にの来至(まひけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は、害(そこなひ)を有(たもつ)と雖も、又、龍の徒(ともがら)にして功(いさほ)の有り。之を払い捨(すつ)る可(べか)らず。」

南よりの来詣(まひけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は大(ふとき)功(いさほ)を有(たもて)り。而(しか)も又、小(わずか)にも害(そこなひ)の無し。龍と性(さが)を同(ひとし)くす。能く養(か)ひ置く可し」

次にの来候(まひけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は弱(かよわ)き物(いきもの)なり。人に食(か)われて汚きなり。姿を替えて岩(やま)に住め。」

次にの来詣(まひけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は是れ更に功(いさほ)の無く害(そこなひ)も無し、乃(いまし)が隋任(おもひのまま)に住(とどまる)べし。」

西よりの来(まひけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は時を知る。人の家に住(とどま)るべし。」

次にの来伺(まひけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は人を拒まず、人の家に在るべし。」

次にの来帰(まひけ)り。日(のたまは)く、 「汝(いまし)は可(よ)く食(くら)ふも、又神祇(かみがみ)を穢(けが)す。猪と為(なり)て野に住め」

次にの参候(まひけ)り。日(のたまは)く  「汝(いまし)は妖物(ばけもの)なり。神の使いと為(なり)て祭(たてまつ)れ。」

次にの参詣(まひけ)り。日(のたまは)く、  「汝(いまし)は害(そこなひ)を有(たもて)り。又功(いさほ)の無き者なり。然りと雖も猛(たけ)き物なり。宜((よ)く野に住(とどま)り、獣の溢(あふるる)を制(おさ)ふべきもの也。)

『是れ、十二支(ひよみのかみ)、及び物(いきもの)に位(くらひ)有り、其の法(のり)の元(はじめ)なり。』

この後、大国主尊は大陸に渡り国の鎮めの神々を生みつつ、西国(おちつくに)に至り、香狭生葉(かさふば)と名(い)へる聖人を見つける。

『この国に智識(ひじり)の神有(ま)せり。天神(あまつかみ)に非ず、地神(くにつかみ)に非ず、山仙(やまひじり)に非ず、龍霊(わだつかみ)に非ず、香狭生葉(かさふば)と名(い)へり。』

大国主尊は之に属(つき)て習(もじならひ)したまふ。之を誘引(いざな)ひ環来(まひかえり)て、大倭国(やまとのくに)の葛城山に居(まさせ)て、之れ崇(あがま)へ之を師(おしえびと)とす。

『是れ、神も法(のり)を尊(たっと)ぶ、其の法(のり)の元(はじめ)なり。』

 

投稿者:  神代一丸

 


 

<<その壱>>

あなたも私も、今、この世に生きている。この人生は自分から求めて得たものではありません。与えられたものです。それでは誰によって与えられたものでしょうか。誰かと言えば、それは神と言はざるを得ません。子を授けられた母親は、その日から親としてわが子に丹精の限りを尽くします。子は親の丹精に応へ報恩の道をつくします。これを孝行と言う。身体髪膚(しんたいはっぷ)は父母に享け」と"義経記四"に記述されておりますが、しっかりと心すべき言葉だと思います。

過去が無ければ今は無い、現在は過去の積み重ねの上にあり、過去は現在を産んだ親なのです。長〜い、長〜い過去、これを私たちは歴史と言います。

さて、私たち現代人にとって聖徳太子ほど古代史上、なじみの深い人物はおりません。然し聖人と称えられながらも、後世に詳しくは伝えられていない謎の多い人物でもあります。

今から千四百三十一年前の、敏達天皇元年、壬辰、正月元旦、聖人の誉れ高き聖徳太子は誕生しました。父君は敏達天皇の弟君、橘の豊日尊(後の用命天皇)、母君は、父君とは異母妹の穴穂部間人皇女です。

太子は生まれて間もなく、初めて開いた右の掌に一つの瓢箪の実を、しっかりと握っていたそうです。それを見た諸人達は、「この王子(みこ)は聖人と為るの瑞(みしるし)なり。」と、又「この王子(みこ)は當(まさ)に儒宗(なかからのみち)を、弘(ひろ)しめたまふべき瑞(しるし)なり。」と言いました。

その年の二月、王子(みこ)は、東にむかって左手(ゆんで)を開くと、掌の中に舎利を握っていたそうです。その色は青白く、その大きさは小豆ほどで黄金の光を放ち、普く宮中を照らしたと言う事です。生まれてからこのかた、左手を披いたことは無く、この時初めて披かれたと言う事です。「この王子(みこ)は當(まさ)に佛法(ほどきののり)を弘(ひろ)しむべき瑞(しるし)なり。」と世の人たちは揃って言いました。

「一つ(ひとつ)を聞きて、十(とう)を知り、二(ふたつ)を聞きて、百(もも)を知りたまふ。」と、又「八方十人の訴えを聞きわけて、誤る事なし。」と・・・・・。 幼少の頃より聡明な太子の才能と徳を称えて、厩戸皇子(うまやとのすめらみこ)、豊聡八耳太子(とよとのやみみのたいし)、上宮王(うえのみやおおきみ)、豊耳聡聖徳(とよみみとしのしょうとく)、大法王(ふとのりきみ)などその他、多くの尊称で呼ばれました。

曽我家、物部家の軋轢の激昂している最中、朝鮮半島の三韓(新羅、高麗、百済)は、仏像、経典を頻りに貢献しますが、敏達天皇は経典が読めなくて、大層お怒りになりました。幼い厩戸皇子はこれを見て解読し、三韓の使節を驚愕させたという事です。

以来、厩戸皇子は、孔子、孟子、の儒教、釈迦の仏典に勝る理念は、わが国日本には無いものかと、古代の文献の探求に着手し、神代文字を廃止して、漢字を音と訓に分けて国字として制定しました。父君、用命天皇が病死、崇峻天皇が蘇我馬子に弑逆され、即位した推古天皇の懇望で皇太子となり、摂政の宮として、日本最初の憲法である、「和をもって尊しとし、忤らうことなきをむねとせよ」に始まる十七条五憲法を作り、国史の必要を痛感、夢殿を建ててそこに籠もり、「先代舊事本紀」の編纂に着手されました。

「先代舊事本紀」の出来たのは、推古二十八年、その年の十一月、聖徳太子は推古天皇に対し「折角の此れが書、遠からず亡失のおそれあり。」と語られ、翌年二十九年二月五日、后の膳の大郎女(かしわでのおういらつめ)と共に枕を並べて急逝されました。既に自らの陵(みささぎ)を土師(はじ)氏に命じて作らせてあり、覚悟の崩御と雖も、お二人が一緒とは唯のご逝去ではありません。

推古天皇は何者かの策動によるものと感じたのか、「舊事本紀」の編纂奉行は蘇我馬子(そがのうまこ)と、中臣御食子(なかとみのみけこ)の二人だったが、御食子のみ呼び寄せ、「書の亡失のせざらん事の為の方策を図らねばならぬ。」と仰せられたのは、皇太子ご崩御の影に、馬子ありと悟っておられたのではなかろうか。中臣御食子は神武天皇が御東遷の際、熊野に於いて高倉師である天隠山命(あめのかぐやまのみこと)が認めた神代の秘録を平岡神社、阿波神社に秘蔵した故事にのっとって、神社への秘納を言上しました。天皇は御食子を伊勢に遣わし神示の窺いをさせました。伊勢に鎮座されます天孫大神(あめみまのおほかみ)は、「神祠(かみやしろ)に秘さば失せざることは無かりき。」と宣いました。

このようにして、聖徳太子が生涯を賭けて編録した神書、「先代舊事本紀」は千年の後までも失せることなく、遺し得たのです。湿気と暖気に虫食いに、ぼろぼろになった神書の書写は、大変な作業であったであろう、又神書の内容は聲なき聲を発しつつ、神官たちの魂を揺さぶった事であろうと・・・・・・・。 


<<その弐>>

推古天皇は太子の言葉を思い出し、「先代舊事本紀」の編纂奉行の一人、中臣御食子を呼び、「折角のこれが書、如何なる手段によれば、失う事のなきや」と相談され、御食子を伊勢に遣わし神慮をお伺いしました。天孫大神(ににぎのみことのおおかみ)が神巫(みこ)に憑り申された神示に従い、中臣御食子をして、五十鈴宮(いすずのみや)、大三輪宮(おおみわのみや)、四天王寺の三祠にこれを秘匿され、「先代舊事本紀」はこの世から姿を消しました。

それから、七十年、八十年の後に、「古事記」を書かしめた元明天皇にしても、「日本書紀」を記さしめた元正天皇にしても、「先代舊事本紀」がこの世に存在している事を知りませんでした。然し、天意、神意による秘宝、そのままこの世の中から消え去る事はなかったのです。

千年後、湿気と暖気、虫食いに侵された秘宝は神官や住職によって発見され、書写されて巷間に出回ったのです。然し、この難解な書物は二、三の人達に読まれただけで、これを神恵みの古代編纂の大録である事を知る由もありませんでした。

時は徳川五代将軍綱吉の時代、漢学においては、幕府の御用学者である林羅山の右に出る人はおりませんでした。所は上州、館林の禅僧、潮音道海なる僧が、将軍の生母である桂昌院の力入れで、伊勢の別宮、伊雑宮(いざわのみや)の神庫の奥深くに秘蔵されていた古書、聖徳太子撰「先代舊事本紀」(七十二巻)を神官の許しを得て書写し、勉強し、清書した上に、刊行を試みました。

桂昌院から、「まずは大学督(だいがくのかみ)に見せなさい」と言われた潮音は、林羅山に見てもらいました。漢学者として並ぶ人の無い林羅山は、その文章を読むに読み難く、大いに怒ったという事です。「何だ、これは!・・・潮音づれが聖徳太子の名を騙りおって不届き千番、こんな偽書が読めるか!」と一喝 ・・・、 実は「舊事紀」の文章が大和読みである事に、気がつかなかったというのだが ・・・? さて、 それはどうだろうか?

こうして「先代舊事本紀」は漢学においては、天下の第一人者である林羅山によって、偽書の烙印を押されたが為に、学者の間では偽書説が主流となってしまいました。「これぞ天下の名著なり! これぞ我が日本の道の標なり!」と刊行を試みた潮音ですが、時の漢学者や碩学の言葉に悲憤の涙に暮れたという事です。ああ・・!何たることであるか ・・・!

「偽書だ! ・・・ 偽作だ!」と騒がれ、末は幕府の弾圧により禅僧、潮音と伊雑宮の神官、永野采女ら関係者は処罰され、書は発禁処分、その上焚書にされ「伊雑宮事件」として歴史に残りました。この出来事をそのまま語るより、なにか新たな陰にある歴史的事実が発見できないものだろうか! ・・・・ 。

仏教の世界で名のある潮音はその後、自ら神儒仏の三教を通して「大成経破文答釈」を著わしこの書が神典であり、真書である事を幕府の弾圧に屈せず叫び、訴えたのでした。仏教信仰からの精神から接した「先代舊事本紀」に対する潮音の心念は、簡単には崩れ去る事はなかったのです。

以来、明治の時代に及んでも、「舊事紀」の一部を勉強した人はいても、全巻七十二に及ぶ大録を悉く勉強した人はおりませんでした。

「先代舊事本紀」が秘蔵されていた伊雑宮(イゾウグウともイソベさんとも言う)は徳川時代、地元、磯部の漁師達の守り神として尊崇されておりました。明治初年になって宮司が神社の庫内で膨大な神書を発見しました。それは「先代舊事本紀」即ち(神代皇代大成経)の写本でした。驚いた宮司は伊勢の神宮にこれを見せました。爾来伊雑宮はイザワノミヤと呼ばれて、内宮の別宮とされ、内宮、外宮同様に式年遷宮には遷座する事が決定したと言うことです。

そこで考えられる事、伊雑宮(イゾウグウ)とはその昔の五十宮(イソウグウ)の事であります。今から千八百年前、垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)は斎宮(いわいのみや)となられたが、この倭姫命に憑られた天照大神は、幽遠の彼方の御誕生の地こそ鎮座の場所と、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)をお出ましになり、伊賀、近江、美濃、尾張、伊勢路へと諸国を巡られました後、遂には聖地、伊勢国の磯部の五十宮に辿りつかれたのです。

こうして伊勢に内宮が完成されるまで、磯部に留まられたのです。その磯部は今でも志摩国(しまのくに)です。今から千四百八十年前、志摩国は大地震の為海底に沈んでしまいました。時の武列天皇は非道横暴を極めた人で、地震は神様が起こすと信じられていた当時の事、「神様などに負けてたまるか、志摩国が無くなったのなら造れば良い」と伊勢国の一部を割いて志摩国としたのです。

この五十宮(イソウノミヤ)に、推古天皇の命を受けた中臣御食子は「先代舊事本紀」を秘納しました。五十宮(イソウノミヤ)こそ、後に名を改めた現在の伊雑宮(イゾウグウ、イザワノミヤ)なのです。

今より数えて二百有余年前、神道家の依田貞鎮(偏無為)は伊勢の五十鈴宮、大和の大神神社、大阪の四天王寺に秘蔵されていた「舊事紀」を合わせ七十二巻に整え、「古事記伝」で有名になった本居宣長にこれを見せました。宣長にとっては当然の事、「古事記以前に斯様な書物は無い筈!」と疑問を抱きながら、「古事記の文と日本書紀の文を交えて挙げたる故に文体一つの物にあらず、諺に"木に竹を接けり"とか云うが如し」と軽く評価、「先代舊事本紀」は真書とは認め難しと言うのでした。偏無為は四十五年間を「先代舊事本紀」と共に過ごし、七十幾年の生涯を鎖じたと言うことです。

「先代舊事本紀」は聖徳太子の発案で、先史のことごとくを集め記録したもので、「編録終了の砌は、六名家[吾道(あじ)、物部(もののべ)、忌部(いんべ)、卜部(うらべ)、出雲(いずも)、三輪(みわ)]より集めた家録を、それぞれの名家に返還するように」と太子が命じたのに、馬子はこれを返さず自家に留めおいたのです。それが後日の「日本書紀」の記録の原典となりました。それ故に、「日本書紀」の記述内容の全ては、「先代舊事本紀」の中に記されているのです。

蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手で倉梯の宮(くらはしのみや)において、崇峻天皇を斬殺させて以来、太子は蘇我馬子に対して笑顔を見せた事がありません。太子は馬子に「斯の書物は神々の在(ましませ)し姿を後世に示すもの、心は清浄に微塵の穢れもあってはならじ。わずかにも穢れの在りては、後世を欺く事になる。懺悔して認めに当たれ」と懇々と諭されては、馬子、天皇斬殺の罪を陳べざるを得なくなりました。「陳べては、これ曽我家の恥辱、万代に傳わる。然らば斯の書物遺すべからず」と太子ご夫妻を毒殺し、この書物の抹殺を考えたと思われるのです。

古来の記録を集めて、国史を正しく後世(のちつよ)に遺し、国の将来に誤る事の無きことを求めたのが「先代舊事本紀」。時は推古天皇の二十八年十一月、太子は撰録が終了した時、「折角の之が紀、天(あめ)を望(あおい)で窺うに、久しからずして亡失の怖れあり」と申され、翌年の二月五日、膳大郎女(かしわでのおういらつめ)の后と共に、枕を並べて急逝されました。

〜 つづく 〜

 

 


Copyright 2001-2002 先代舊事本紀研究学会 All rights reserved.
Maintained online by kujiki@shonanfujisawa.com
first Updated on Dec 25th, 2001