第166回例会の内容紹介


モーツァルトの手紙
     ―1777-79年の旅行から

2018.5.13 14:00〜17:00 藤沢リラホール(第166回)


当日のプログラムより

 
出演 

吉岡 裕子(Pf)
たかぎ ひろみち(朗読)

演奏曲目

モーツァルト:

♪フィッシャーのメヌエットによる12の変奏  ハ長調 K179

♪ピアノ・ソナタ 第9番 ニ長調 K311
   〜第1楽章 アレグロ・コン・スピリート

♪ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K282
   〜第1楽章 アダージョ
 
♪ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調  K310

♪ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調「ジュノム」 K271
   〜第2楽章 アンダンティーノ(ピアノ・ソロ用)


 この例会について
 その才能を父親に見出されたヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(1756-91)は6歳の時から欧州各地の宮廷を巡りその「神童」ぶりを披露して有名になったが、その短い35年の生涯のうち実に14年は旅の日々であった。当時の著名な音楽家(文化人)で幼少のころからこのように多くの旅に明け暮れた人はいない。彼は学校にはゆかず、音楽ならず他の科目の授業や教養も偉大な音楽教師であり知識人であった父レオポルトから受けたのであったが、その旅の模様の多くは彼や父の家族や友人にあてて書いた手紙に残されている。
3度目のイタリア旅行帰国から4年後(1777年)、21歳になったモーツァルトは約1年半をかけ母マリア・アンナとドイツとフランスへの旅に出るが、この旅ではもはや「神童」ではなくなった彼の就活運動としてのものであり、それは彼の短い生涯の中では最も辛いものとなり、彼を人間としても作曲家としても成長に向かわせたのである。                  
 イタリアで念願のオペラを3作も上演でき、そこそこの成功を見たのに、皇后マリア・テレージアの意向でミラノの宮廷などで就職できなかったモーツァルト親子は、その後の故郷ザルツブルクでの無理解な大司教への宮仕えにストレスがたまり、新たな旅の機会を狙って1777年3月に親子で休暇願を出したものの、コロレド大司教に一蹴される。コロレドにとっては車夫馬丁の類に過ぎない親子を他の奏者の手前もあってこれ以上甘やかすなという方針であったが、その結果、モーツァルトのみが辞職をし、父は副楽長として宮廷に留まって代わりに母親のアンナ・マリアをつけて77年9月23日に二人は出発した。今や理不尽な要求ばかりしてくる「糞坊主」と、いつまでも自分を子供のように扱って口うるさい親父からすっかり解放された気分で彼は希望に満ち満ちてまずはバイエルン公国の首都ミュンヘンに自家用馬車で向かった。なお、この旅行の間、父と子は頻繁にわたって手紙のやり取りをしていたので、この旅の諸事情はほぼ正確に把握できるのである。この手紙の1部が運営委員の手によって選ばれ、本日、関連するピアノ曲と共に紹介される。

 曲目解説
                    吉野 忠彦
♪J・C・フィッシャーの主題による12の変奏曲 K179
 当時有名なオーボエ奏者だったフィッシャーのオーボエ協奏曲第1番の終楽章ロンドのメヌエット主題をもとにしたフォルテ・ピアノのための変奏曲で、1774年夏ごろザルツブルクで作曲したものと推定されている。今日あまり演奏されないが、12の変奏はいずれもハ長調4分3拍子で明るく輝かしいもので聴きやすいためか、モーツァルトは好んで演奏会で取り上げており、この旅行でもマンハイムやパリで演奏し、78年パリで他の2曲とともに印刷されている。

♪ピアノ・ソナタ第9番 ニ長調 K311(284c)
 ミュンヘンで就活に失敗した後、モーツァルト母子は父の故郷であるアウクスブルクに立ち寄る。アウクスブルクでの目的はレオポルトの親戚との交流であり、その中でモーツァルトは従妹(父の弟の娘)アンナ・テクラ・モーツァルト(通称ベースレ)と意気投合し、仲睦まじくなり、次の目的地マンハイムから彼女に数通のスカトロジックな言葉に満ち溢れた手紙を書く(一つの例は添付をご参照乞う)。しかし、アウクスブルクではフォルテ・ピアノ職人アンドレアス・シュタインの最新式のピアノに触れ、すっかりその虜になってしまったことが重要だ。これ以後のモーツァルトのピアノ・ソナタはこのシュタインのピアノの響きをもとに作曲されている。
次の重要な訪問地マンハイムでモーツァルトは宮廷楽団の多くの奏者たちと親しくなるが中でもコンサート・マスターのクリスティアン・カンナビッヒは彼を優遇、住まいを提供してくれ、また娘のローザのためにピアノ・レッスンを乞うた。そのため11月の初旬にモーツァルトはK309 (第7番)とK311(第9番)の2曲の(双子のような)ソナタを書いた。第7番がローザにささげられたらしいが、人によればこの9番の方だという説もある。いずれにしても新しいピアノからの霊感とマンハイムの宮廷楽団などの活発な音楽活動からの創作意欲によるものであり、ピアノでの新鮮な表現方法や可能性が出ている。本日はこの第1楽章アレグロ・コン・スピリートが演奏される。

♪ピアノ・ソナタ第4番  変ホ長調 K282(189g)
 マンハイムでモーツァルトは恋をする。相手は貧しい写譜家のフリドリン・ヴェーバーの4人娘の次女アロイジアという女性であった。彼女は歌手になるための勉強をしていてその才能にモーツァルトが惹かれるうちに熱烈な恋に陥ったものである。彼女は歌ばかりでなく、ピアノも上手に弾けたといい、彼の数曲のソナタを好んで弾いたらしいが、それはどうやらモーツァルトが「偽の女庭師」の上演のためにミュンヘンに滞在していた折に選帝侯の侍従で大の音楽好きであったデュルニッツ男爵から依頼を受けて書いた6曲のピアノ・ソナタ(K279-284)の中からの曲であったらしい。
これらはマンハイムで書いたものより古いスタイルで書かれているが、それはチェンバロ用に作曲されたことによる制約によるものであろう。その中でも第4番のソナタは、他の多くの曲と違い速いアレグロでなくアダージョで始まる点が特徴だが、本日はこの美しい第1楽章アダージョが演奏される。

♪ピアノ・ソナタ第8番  イ短調 K310(300d)
 マンハイムでも就活中に、当時欧州第1の文化人と言われた選帝侯カール・テオドールが、12月末にミュンヘンのバイエルン選帝侯が急逝したためその相続人として名乗りを上げ、1778年1月初めにミュンヘンに旅立ち宮廷をそちらに構えるべくオーケストラもマンハイムに移動するという騒ぎがあって、モーツァルトの必死の努力もむなしく終わる。モーツァルト自身はアロイジアに入れ込んでそれならイタリアに連れ立って行ってオペラを成功させようなどと甘い考えを抱くが、息子の就活旅行のため多大の借金を背負った父レオポルトは激怒して、さっさと切り上げてパリへ行くことを厳命する。母アンナ・マリアはマンハイムから帰郷する予定であったが、息子の不行跡を心配した父が同行を命じて共にパリに赴くこととなった。78年3月に9日間の辛い馬車旅で23日にパリへ着く。まずは宿探しから始め暗いみじめな宿に落ち着き、翌日から世話してくれるグリム男爵やパトロンになってくれる貴族を訪ね歩いたが、移り気なパリの人々は「神童」でなくなった外国の田舎の「二流」音楽家には目もくれず、さらにモーツァルトはパリの音楽界の「陰謀」に巻き込まれ、書いたものが演奏されず、楽譜も消失するというインシデントに巻き込まれた。就活もうまくゆかず、パリに嫌気がさした彼はせっかく持ちこまれたヴェルサイユのオルガニストのポストも父に相談することなく断ってしまった。そんな中で3か月後の6月中旬、やっと公開演奏会で交響曲「パリ」(K297)の初演がヒットした。ところが、その翌日から同行してきた母の体調が非常に悪化して寝込むようになり、ついに異郷で7月3日に寂しく亡くなってしまう。最愛の母を亡くしてしまったショックは大きく、このときに故郷の父や友人にあてて書いた手紙が有名だが、このころ書いたと思われるピアノ・ソナタ イ短調は彼の当時の内面の悲痛さが現れたとして母の死と結び付けられ、よく演奏されるものである。第1楽章でハ長調への転調ですらも明るくならない全体が暗い曲で、以後モーツァルトの短調は独自の陰影と深刻さを持つようになる。

♪ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュナミ」K271
 パリで就活に失敗したモーツァルトは追われるように9月26日に故郷へと向かうが、途中父の意に反して恋人アロイジアが待っているはずのマンハイムを訪れる。しかし、先述した様な事情でヴェーバー一家は宮廷とともにミュンヘンへ移動しており、モーツァルトはしばらくここに滞在後、激怒した父の命令に従い、ミュンヘン経由でいやいやながら故郷に向かうが、12月25日のクリスマスにたどり着いた彼を迎えたのは、今や宮廷歌手となってそこそこの暮らしを始めた恋人アロイジアの心変わりの「ノー」だった。もはや一家はモーツァルトの助けも必要なく、就職に失敗してみじめな姿で現れた彼の入り込む余地はなかった。泣きながら彼女の家を出たモーツァルトにこのショックは大きく、彼はアウクスブルクから従妹の「ベースレ」を呼び寄せて慰めてもらいながら翌79年1月中旬に彼女とともに故郷へ帰りついた。この1年半足らずの旅は、就活の失敗と特にパリの人々の冷たい仕打ち、最愛の母の異郷での急逝、恋人アロイジアの裏切りによる失恋などの人生上の初めての苦労や痛手を負った本当につらいものとなったが、この間に残された珠玉のような作品(特に新しいピアノを用いたソナタやパリ風の優雅な「ギャラント」スタイルの協奏曲など)は、後世の我々にも感動を与えてくれるし、この貴重な経験がそれからの彼の多くの名曲を生み出す力となっていったことは容易に理解できよう。
最後に旅行の始まった年1777年の1月にザルツブルクで書いた協奏曲ピアノ協奏曲第9番(ジュナミ)の第2楽章を聴いて頂きたい。「ジュナミ」は当時ザルツブルクを訪れていたフランスのバレエの振付師で、王妃マリーアントワネットのダンスの師でもあったノヴェールの娘で、優秀なピアニストとして知られていたジュナミのことであり、パリでこの親子とも再会、モーツァルトは彼の依頼でバレエ曲「レ・プティ・リアン」を書いていて一応の成功をしている。第2楽章はハ短調であり、陰影に富んでいるし、彼の当時の物思いが切々と感じられるようだ。


◎講演者のプロフィール
吉岡 裕子 (よしおか ゆうこ) ピアノ
 武蔵野音楽大学を経て、同大学院修士課程修了。ピアノを福元サザレ、永島恭子、ゲルハルト・べルゲ、マックス・ マルティン=シュタイン、山田彰一、エルジェーべト・トゥーシャの各氏に、ピアノ・デュオ演奏法をアンリエット・ピュイグ=ロジェ氏に、室内楽をマルグリット・フランス氏に師事。その後、ヴィクトリンク・ムジークフォーラム (オーストリア)、ヴェルビエ音楽祭(スイス)、ショパン音楽アカデミー(ポーランド)における講習会等にて更なる研鑽を重ねる。1992年、全日本演奏家協会主催「第1回全日本フランス音楽コンクール」第2位入賞。95年、バリオホールでのデビューリサイタルを皮切りに、定期的にリサイタルを行う。 95年および97年の台湾・高雄市における音楽祭では、高雄市交響楽団とモーツァルトとプーランクの2台のピアノのための協奏曲を共演。97年より、八ヶ岳高原音楽堂におけるトーク&コンサート・シリーズを重ね、その演奏会は現在に至るまでにおよそ80回に及ぶ。 2015年より、アトリエ・ミストラル(高崎市)にてリサイタル・シリーズ「モーツァルト&ショバン」を継続中。05 年、エストニアのヤネダにウルマス・シサスク氏を訪ねて以来、氏との親交を重ね、その多くのピアノ作品や室内楽作品の日本初演を行う。11年には初となるCD アルバム「ウルマス・シサスク: 銀河巡礼~北半球の星空」をリリース。「天文ガイド」、エストニアのクラシカ・ラージオ (Klassika Raadio)などで紹介され、好評を博す。14年、第2回エイヴェレ国際ピアノ・フェスティヴァル(エストニア)に招かれ、シサスク氏とのコラボレーションによる コンサートで《銀河巡礼~南半球の星空》 全曲演奏を行ったほか、マスタークラス講師を務めた。16年、表参道パウゼにてピアノリサイタル「アルメニアの夕べ」を開催。本年5月、2作目のCDアルバム「ウルマス・シサスク: 銀河巡礼~南半球の星空」をリリース。現在、埼玉県立大宮光陵高等学校音楽科ピアノ講師。

たかぎ ひろみち(高木 宏道) 朗読
 現在Office AAIとして劇作・演出・出演・舞台監督・制作など、役割にこだわらず広く舞台表現に関わっている。茨城大学人文学部卒業。国語教員免許取得。ELS Language Center level108修了。その後、東宝現代劇養成所で演技者の基礎を学ぶ。演出等を菊田一夫の流れをくむ平山一夫に師事。蜷川幸雄演出「にごり江」を初舞台に商業演劇や小劇場に多数出演。朗読の活動も精力的に行っている。その間自らも、演劇・ミュージカル・合唱(作詞)等のオリジナル作品を発表。戦災孤児を題材にした「わかくさのうた」はライフワークになっている。スタッフとしては、東宝作品の演出部や宝塚歌劇の進行係を経験しながら、プロアマ問わず多くの団体と活動している。現在は様々なショーやイベント、テレビ番組制作の仕事もしている。東京在住。最近の仕事:舞台「冬の馬」(清水邦夫脚本)吉村研一役(主役)。映画「サンゴレンジャー」。劇作・演出「わかくさのうた」。合唱作詞「ラティティ」。テレビ制作「ファミリーヒストリー オノ・ヨーコ&ショーン・レノン」「欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)」演出部「Piaf」(大竹しのぶ主演)



166回例会 資料

モーツァルトの人生を変えた旅
――ミュンヘン、マンハイムとパリ(1777―9年)

                 吉野 忠彦 K299
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 その才能を父親に見出されたヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(1756-91)は6歳の時から欧州各地の宮廷を巡りその「神童」ぶりを披露して有名になったが、その短い35年の生涯のうち実に14年は旅の日々であった。当時の著名な音楽家(文化人)で幼少のころからこのように多くの旅に明け暮れた人はいない。彼は学校にはゆかず、音楽ならず他の科目の授業や教養も偉大な音楽教師であり知識人であった父レオポルトから受けたのであったが、その旅の模様の多くは彼や父の家族や友人にあてて書いた手紙に残されている。例えば、父子は3回にわたって当時の音楽の先進地であったミラノをはじめとするイタリア各地を旅行しているが、ミラノやヴェネチアと並ぶオペラの中心地ナポリを訪れた際(1770年6月)、考古学にも興味をもっていた父レオポルトに連れられて発掘調査が始まって間もないポンペイまで足を伸ばしている。当時彼は14歳であったが、遠い外国ザルツブルクからこんな少年が古代ローマ時代の遺跡を訪ねるなど当時としては本当に異例のことだったに違いない。
 その3度目のイタリア旅行から4年後(1777年)、21歳になったモーツァルトは約1年半をかけ母マリア・アンナとドイツとフランスへの旅に出るが、この旅ではもはや「神童」ではなくなった彼の就活運動としてのものであり、それはその短い生涯の中では最も辛いものとなり、彼を人間としても作曲家としても成長に向かわせたのである。
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 イタリアで念願のオペラを3作も上演でき、そこそこの成功を見たのに、皇后マリア・テレージアの意向でミラノの宮廷などで就職できなかったモーツァルト親子は、その後の故郷ザルツブルクでの無理解な大司教への宮仕えにストレスがたまり、新たな機会を狙って1777年3月に親子で休暇願を出したものの、コロレド大司教に一蹴される。コロレドにとっては車夫馬丁の類に過ぎない親子をこれ以上甘やかすなという方針であったが、その結果モーツァルトのみが辞職をし、父は副楽長として宮廷にとどまって代わりに母親のアンナ・マリアをつけて77年9月23日に二人は出発した。今や理不尽な要求ばかりしてくる大司教と、いつまでも自分を子供のように扱って口うるさい親父からすっかり解放された気分で彼は希望に満ち満ちてまずはバイエルン公国の首都ミュンヘンに自家用馬車で向かった。なお、この旅行の間、父と子は頻繁に手紙のやり取りをしていたので、この旅の諸事情はほぼ正確に把握できるのである。
 ミュンヘンはザルツブルクからは140キロ離れた大都市でそれまでにも3度滞在したことがあり、またバイエルンの選帝侯マクシミリアン3世は大変な音楽好きで、1774年にはモーツァルトに宮廷劇場上演のためオペラ・ブッファ(イタリア語で書かれた喜歌劇)を依頼してこの作品「偽の女庭師」(K196)は翌年1月に好評裡に上演されていたことから、モーツァルトはここでの就職を極めて楽観視していたようだ。しかし数人の貴族が好意的に迎えてくれたものの、事態はそう簡単でなく、期待していた選帝侯にもやっとのことで、候が狩に出立する前に数分立ち話ができ、そこで「宮廷楽団には空席がない」とそっけなく断られてしまった。これは、モーツァルトが大司教とけんかをして飛び出してきたことが、選帝侯にも伝わっており、仮に選帝侯が好意をもっていたとしても当時の複雑な国際的な理由から、隣国の「札付き」の人物を採用するわけがなかったものと思われる。ミュンヘンの友人たちは、なおここでの活躍に未練を抱いているモーツァルトのためにアイディアを出してくれたのだが、故郷に残っている父のリモート・コントロール下にある彼は父の「安売りをするな」という方針に従い、14日間の滞在ののち、母親と共に次の訪問地アウグスブルクへ向かったのであった。(なお、ミュンヘンでは3年後、新選帝侯カール・テオドールの依頼によりモーツァルトのオペラ・セリアの「イドメネオ」が上演され、大成功を博すことになる。)
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 ミュンヘンから西に50キロのところにあるアウグスブルクはローマ時代に創立されーーその名前はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスによっているーー、中世には大金融商フッガー家が支配していた町で、父レオポルトが製本師の息子として誕生したところ、当時は弟のフランツ・アーロイス・モーツァルト一家が暮らしていたため、母子は大歓迎される。ここは当時宮廷のない帝国自由都市であったので気楽にコンサートをしたりして2週間滞在している。ここでのモーツァルトにとっての重大事はピアノ製作師のシュタインと懇ろになって彼の最新式のピアノに魅せられたことであり、その詳細をシュタインの8歳になる娘の天才的な演奏とともに父に報告をしている。このピアノとの出会いがモーツァルトのピアノ・ソナタの基礎となった。
 またここで忘れてはならないのは、フランツ叔父の娘でモーツァルトの従姉妹であるマリア・アンナ・テクラ(モーツァルトは彼女を「ベースレ」(従姉妹ちゃんの意)と呼んだ)と親しくなり、旅の間、文通が始まった。ベースレは2歳下の美しい娘であったが自由都市の女性らしく、自由奔放で2人は意気投合し見境いもなく親しくなってしまった。今日、彼女への9通の手紙が残っているが、そのいずれにも記述したようにウンコやおしっこ、尻、おならなどの言葉が多出し、モーツァルトのスカトロジー(糞尿譚)趣味を物語る貴重な資料となっている。これらの手紙は長いことモーツァルトのイメージを損なうものとして20世紀中ごろまで研究者たちから無視されてきた。
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 77年10月30日、母子は14年ぶりに旅の重要な目的地の一つであるマンハイムに着いた。ここは1720年以降、プファルツ選帝侯の宮廷がハイデルベルクから移転されて首都となっていた町であったが、当時の選帝侯カール・テオドール(1724-99)は欧州一の文化人と言われ、哲学者のヴォルテールとも親交が厚く、芸術、学問の振興に力を入れ、特に音楽好きなところからこの宮廷の大オーケストラは他の追従を許さないレヴェルのものであり、ボヘミア人のヨハン・シュターミッツを祖とする「マンハイム楽派」の全盛期にあってウィーンなどより音楽的に進んでいた。モーツァルト親子はここの宮廷に仕えることに大きな希望を持っており、モーツァルトは到着早々に礼拝堂でこのオケを聴き狂喜した。特に、他の楽団ではまだ採用されていなかった新しい楽器クラリネットが彼の興味を惹いたのである。
母子の取った宿は「みじめな」屋根裏部屋で特に母マリア・アンアにとっては辛い冬の滞在となった。しかし、モーツァルトは初日から積極的に就活をはじめ、すぐに楽員とオペラの歌手を通じて楽長のJ・クリスティアン・カンナビッヒの家に連れてゆかれ、モーツァルトの弾いたピアノ・ソナタが彼に気にいられて、親身の世話を受けることになり、毎日のようにこの家に通い、カンナビッヒの13歳になる娘ローザにピアノを教えることとなった。カンナビッヒは彼が宮廷作曲家に取り立ててもらえるよう宮廷に働きかけてくれた。次いで、ミュンヘン同様、選帝侯へアタックをかけ、まず、選帝侯妃に面会がかなう。彼女は15年前に「神童」としてやってきた彼のことを覚えており、早速に演奏会に招待されピアノ・ソナタを弾いて好評を博し、報酬として期待していた「お金」ではなく、高価な時計を贈られた。しかし、これにより彼は選帝侯一家に近づくこととなり、彼らの子女にピアノのレッスンを始め、ある時には選帝侯に直接彼の願いを訴える機会にも恵まれた。こうして彼の就職の希望にも明るさが見えてきたように思われた。しかし故郷の父にとっては到着後約1か月も何の具体的な展望が見えないことと旅の資金が乏しくなってきたことが腹立たしくなり、これから手紙のたびごとに小言やお叱りを書き、これに対し息子の方は弁解に追われ、さらには21歳にして初めて(?)、絶対的権威をもっている父親に反発する態度を示すようになってゆく。母子のマンハイム滞在は結局約5か月半にも及んだが、実にこの間双方で交わした手紙は残存しているもののみで60通以上に上り、その多くのものが長文のものとなっている。今日ならば、他の発達した通信手段で直接話し合うことも可能なのだが、当時はもちろん不可能で、手紙が行き違ってしまったこともたびたびであった。父はやはり従来のように自分が同行すればよかったと悔やみ、休暇を裁可しなかった大司教を恨めしく思ったに違いない。12月10日にモーツァルトはある貴族を通じて選帝侯の返事を確かめたのだが、煮え切らない答しかもらえず失望する。
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 イライラして待機しているうちに、思いがけない大事件が起きた。旅行の始めに訪問し、就職を断られたミュンヘンのマクシミリアン3世選帝侯が12月30日に急逝し、直系が絶えたため、かねてからバイエルンの領土を狙っていた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が口出しをする前に、その後釜を狙って継承権のあるプファルツのカール・テオドール侯が急遽ミュンヘンへ出発、78年1月3日に後任者に決定したのである。彼は宮廷をミュンヘンに置き、マンハイムの宮廷の主だったものは移転をさせられることとなった。宮廷楽団もミュンヘンへ引っ越す羽目となる。ここにモーツァルトの就職は全く不可能になってしまった。このような状況下で、父は14年前に成功を収め、知人も多いパリに息子を向かわせるべく方々に連絡を取るなど準備を始め、息子に伝達する。しかし、彼はすぐに腰を上げようとせず、冬をマンハイムで過ごすこととなり父の怒りを倍増させてしまう。
 息子がマンハイムでぐずぐずしていたのには訳があった。第1に彼は楽団仲間にも受け入れられ、作曲や音楽教師の仕事を紹介してもらっていた。ここから2曲のフルート協奏曲やフルート4重奏曲などの名曲が誕生する。また数人の楽員からパリへの演奏旅行にも誘われていたのだ。第2に、ここでの居心地が良かった。狭い宿の問題も彼に好意を寄せる宮中顧問官ゼラリウスが自分の邸宅に母子を住まわせてくれ、宿賃と寒さから解放してくれた。代わりに彼はその家の娘テレーズ・ピエロンのピアノのレッスンを引き受けている。いかに自家用の馬車があろうと寒い冬空のもとを母親とともに遠い異国まで旅するのは大変である。第3に彼の交友仲間のうちに、年頃の彼にとって魅力的な若い女性が何人も存在していたことである。特に、その中に宮廷の歌手で写譜をもやっていたフリードリン・ヴェーバーがおり、彼には4人の娘がいて、モーツァルトはその中の次女のアロイジアにお熱を上げてしまった。彼女が優れたソプラノの声を持っており、良いオペラ歌手になるだろうとモーツァルトは考え、歌のレッスンに入れ込んだのだった。このことを母親はすぐに気づいていたのだが、ザルツブルクの夫に知らせることはできず、息子が父に彼女のことを知らせたのはようやく1月半ばのことであった。このヴェーバー一家との出会いがモーツァルトのその後の人生に大きくかかわってくることになる。(ちなみにフリードリンの弟の息子がのちにオペラ「魔弾の射手」で有名になったカール・マリア・フォン・ヴェーバーであり、アロイジアの年若い従兄弟である)。モーツァルトはマンハイムに母を置いて1月から2月の初めにかけて10日間、近郊へヴェーバー父娘と演奏旅行もしたこともあり、より親密な関係となって、ついには故郷の父に2月10日付けで「パリへ行かず、ヴェーバーと2人の娘を連れてザルツブルク経由でイタリアへ行き、ヴェローナでオペラを書いて彼女たちを売り出したいので、その手配をよろしく」との旨の手紙を書いたので父はショックで愕然とし、一緒に残った娘のナンネルは2日間泣いて過ごしたほどであった。この手紙は出状するために封をする間際に母親が階下で食事をしているモーツァルトの目を盗んで、「アロイジアと付き合いだしてから息子の態度が一変し、ますます自分を無視して外出ばかりしている。このような状態でいかにパリへ行けるのか困っている」旨添え書きしている。これに激怒した父親は2日間徹夜までして、長文の手紙を書き、息子の甘さを難詰し、旅行のための家計の苦しさを訴え、何の為の旅行なのかを理性的に考え、パリにも良いことがあるだろうと諭した。さらに気になったと見えて4日後に優しくなだめる口調で再度手紙を出している。この2通の手紙を読んだ息子は、当惑しただろうが、直ちに全面降伏し、従順な子供へと戻った(2月19日)。そしてパリへ行く準備を始める。当初母親をザルツブルクに戻そうと父と相談したが、結局父の意向でアンナ・マリアも同行することとなった。ここで彼はザルツブルクから乗ってきた軽馬車を売却し、パリ行きの2人分の旅費を捻出した。出発の2日前、カンナビッヒ邸で送別演奏会が行われモーツァルトが教えた3人の弟子のローザ、テレーズ・ピエロンそれにアロイジアの3人が彼の「3台のピアノのための協奏曲」(K242)を弾いて別れを惜しんだ。翌日はヴェーバー家を訪問し、モーツァルト母子はパリへと出立していった。時に、1778年3月14日のことであった。
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 泣く泣くマンハイムを発ったモーツァルトは母と一緒に9日後の3月23日にパリへ到着した。最後の2日間はひどい雨にたたられてずぶぬれで、二人はまず宿探しから始め、安い下宿にベッドを2台入れてもらったが、練習するピアノもないようなところだった。翌日から新天地で彼は精力的に動き回る。幸い父レオポルトが15年前の旅行で大変世話になったフォン・グリムというドイツ人の男爵に連絡を入れておいてくれたので、そこを訪ねてパリでの活動のサポートを改めて依頼した。男爵は当時オルレアン公(ルイ16世の従兄弟)の秘書を務めていてパリ滞在も長く、豊かな人脈があった。彼は何人かの音楽好きな貴族や音楽関係者を紹介してくれた。しかしパリはモーツァルトの子供の時に知っていたところとは全く変わっていたのである。今や21歳になった「神童」は「ただの人」に過ぎない外国人の一作曲家で、かっての栄光は全く通用しなかったのであり、その活動や就活は極めて困難であった。それは第1に彼の今回の訪問後11年目の1789年にフランス大革命がおこったことに見られるように、大衆はブルボン王朝(ルイ16世)の絶対王政に次第に不満を持ち、作物の不作も続いて物価が非常に高くなっていたこと、第2にザルツブルクの宮廷やウィーンの宮廷から有力な推薦状が得られなかったこと、第3に王妃マリー・アントワネットとはかって面識があったものの、このときは初めての妊娠中で、面会を申し出たとしても断られていたであろうこと(実際、このモーツァルトの訪問の数年後、パリへやってきた「ライバル」のアントニオ・サリエリはパリでは全く無名であったが、王妃の兄ヨーゼフ2世の紹介状で、その新作オペラ「ダナオスの娘たち」へのアントワネットの強力なサポートによって大成功を収めている)。これに加え、モーツァルトはここでオペラの上演を期待していたが、当地ではまさに伝統的なオペラ(ピッチンニ派)と改革的なオペラ(グルック派)が攻防中の真最中でモーツァルトなど第3者の割り込むすきがなかったことなどなどがその理由として挙げられるだろう。そしてこれは私自身の体験にもよるが、フランス(パリ)ではフランス語ができない人は、疎外される感じが強い。これはEUの拡大・深化により変わりつつある(=英語がかなり通じるようになった)が、モーツァルトの時代にはその偏見が強く、モーツァルトも就活のためにその必要性を強く感じたらしく、父親への手紙に仏語の勉強のことを述べたくだりがある。
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 今日残されているモーツァルトの父親に対するパリからの2通目の長文の手紙では、グリムの紹介で訪ねていった王族のド・ブルボン公妃の屋敷で長時間寒いところで待たせられた挙句、調律もしていないクラヴィーアで妃とお仲間の「お絵かき」のBGMをやらされてがっくり来たこと、やはりグリムから紹介された公開コンサートの総支配人であるジャン・ル・グロの依頼でホルツバウアーという作曲家の作品「ミゼレーレ」の補完作として作曲した4つの合唱曲が半分しか演奏されず、彼の自信のあった部分がカットされたり、やはりル・グロの依頼によるマンハイムのオケから演奏旅行に来ていた旧知の管楽器奏者たちをソリストとする4つの管楽器のための協奏交響曲(K297b)の楽譜が紛失、演奏もされずに終わってしまい、モーツァルトが大いに憤慨、落胆したこと、さらに後にはグリム男爵の紹介によって紹介されたフルート好きのド・ギーヌ公とハープのうまい彼の娘のために作曲した「フルートとハープのための協奏曲」(K299)の作曲料受取の遅延のことなど書いてあり、モーツァルトは「パリはすっかり変わってしまった」と人々の冷たさを父に嘆いており、すっかりこの「花の都」が嫌になってしまった。(ちなみにハープは王妃マリー・アントワネットが好んで弾いた楽器であり、宮廷の貴族女性たちは争ってハープに取り組んだ。)この協奏曲では、天才モーツァルトがごく短期間にパリの貴族の流行している趣味(「ギャラント・スタイル」)を的確にとらえ、優美なロココ趣味の作品となっている。私はモーツァルトの作品中美しさの点からするとこの曲が最上級のものと考える。他方、協奏交響曲の件はその裏にパリの音楽界の醜い足の引っ張り合いがあり、陰謀の結果、彼の作品がイタリア人の作曲家カンビーニの新作に取って代わられて犠牲になったのではと我が主人公は強く疑っている。尤もこのころから後、モーツァルトの好きな「お尻」という言葉を借用していえば、彼自身のそれの「穴が小さい」ところが見えてきて、自分の思った方向に事柄がうまく進まないと、とかく他人の所為にしてしまうところや嫉妬心が強いところが見受けられるようになり、特に人生の最後の10年間を暮らしたウィーンでは彼の猜疑心の標的は特にライバルのサリエリに向けられることとなる。
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 しかし、パリでもすべてが悪かったわけではない。モーツァルトには、王妃アントワネットのダンスの教師でもあり、モーツァルト親子と旧知の仲であった当時最高のバレエの振付師であったジャン・ジョルジュ・ノヴェールからバレエ作品の依頼があり、「レ・プティ・リアン」(K299b)という作品を書き上げて、6月11日にオペラ座でピッチンニのオペラ「偽の双子」と共に初演されたのである。パリでオペラを書く夢は前述したような事情でかなわなかったが、ともかく彼の作品がオペラ座で上演されたのであった。このノヴェールは王妃アントワネットがヴェルサイユにお輿入れの前、ウィーンの宮廷に呼ばれて、ダンスの教師をしたこともあり、モーツァルト親子とはザルツブルクで知り合っており娘のジュナミはピアノの名手であり、モーツァルトは彼女のためにピアノ協奏曲第9番「ジュナミ」(K271)を書いている。またこのときノヴェールから新たなバレエ作品の依頼もあったが、未完に終わっている。さらに協奏交響曲の一件で喧嘩別れしたル・グロとも仲直りして彼の公開演奏会のために素晴らしい交響曲「パリ」(K297)を一気に書き上げ、これは1週間後の6月18日に初演されたところ聴衆の好みにドンピシャリで、大成功したので少し彼の溜飲は下げられたのであった。ここにもモーツァルトが、いかに速くその地で流行しているものを吸収・消化し、自分独自のものとして完成させる天才的才能を見て取れよう。また親しい宮廷のホルン奏者からヴェルサイユ宮廷礼拝堂のオルガニストのポストの話が持ち込まれたが、モーツァルトはパリに拘束されることを嫌ったかこれを父親に相談することなく断っている。
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 交響曲「パリ」を書いているころ、同行して来た母アンナの体調が悪化する。彼女は本来マンハイムから帰郷する予定であったが、同地での息子の素行(恋愛事件)や旅費の問題等があって父がパリ行きを強引に進めた結果で供をしてきたが、パリへの辛い長旅の後、フランス語もできず常に孤独で、ひどい下宿はすぐに替われたが、暗く寒い一室で一日中息子の帰りを待つ単調な生活をしているうちに4月ごろから体の節々に痛みが出るようになり、薬で一時的に良くなったものの「パリ」交響曲の初演の翌日から寝込むようになり症状が急速に悪化、衰弱がひどくなってグリムが差し向けてくれた医者にかかったが、ついに7月3日の夜、息を引き取った。享年57歳。病名は判明していないが、直接の死因は当時一般的に行われていた瀉血治療のためだと思われる。(ちなみに、息子も13年後、ウィーンで同様の死を遂げる。)翌日、宿からさほど遠くないサントゥスタッシュ教会で参列者も少ない中アンナの葬儀が行われ、付属墓地に葬られたが、その後、伝染病防止のため墓地が撤廃され、彼女の遺骨は行方不明となってしまった。(これまた13年後息子の遺骨もウィーンの墓地で行方不明となる!)
 母の死はモーツァルトにとってその生涯で最も大きな打撃となったが、彼にとっての問題はこの件をいかにして故郷の父と姉に伝えるかであった。勿論、通信手段がない当時手紙でしか報告はできなかったが、心の優しい彼は母の亡骸を前に深夜手紙を書いた。それは彼らに大きなショックを与えぬよう死を知らせず危篤状態にあるとした。そして、そのあと父の気分を紛らわすように「パリ」交響曲の成功や、オペラの話などを書いている。そして同時に故郷で一家が親しくしているイエズス会の神父ブルリンガー神父に事の次第を詳しく述べ、不幸な家族を慰めてと頼んでいる。彼が故郷の二人に自ら母の死を告げたのは7月9日付の手紙でであり、そこには「すべてが全能の神の御心による」ものとした。しかし、モーツァルトの思いやりにも拘わらず、遠い異国の地ではかなく行ってしまった彼女の死は、2人に衝撃を与え、夫レオポルドは深い後悔の念につまされるが、のちにそれは「すべては息子の所為だ」という思いに変わって、以後も折に触れて言うので、モーツァルトを大いに傷つけ、父子の間に溝を深めることになる。母の死後書かれたと思われるピアノ・ソナタ第8番のイ短調(K310)は彼の悲痛な気持ちを見事に反映しているものとなっている。このパリでは同じころヴァイオリン・ソナタホ短調(K304)も書かれているが、これも暗い曲であり、このパリ訪問をきっかけに今までモーツァルトの明るかった作品には悲しい、陰のあるものが増えてくるようだ。
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 母の死後の直後、モーツァルトは下宿を出て、グリムの愛人の住む瀟洒な家に引っ越して作曲と就活を開始するが、折あしくヴァカンスのシーズンであることもあって、相変わらず進捗せず、いらいらした日が続く。そして忙しい最中に面倒を見てくれているグリムに対してもさえ、彼に対する態度が冷たいという感情を抱くようになってゆく。
 しかしこれには裏があった。パリでの就職がうまくゆきそうもないことまた息子が一人で問題を起こさないかという心配して父親がモーツァルトをザルツブルクに呼び戻そうという決意を固めつつあったのであり、そこに7月末に届いたグリムの手紙に「ご子息はあまりにも人を信じやすく、積極性に欠け、騙されやすく、立身出世に通じる方策にはあまりに無関心」であり、「才能は半分でも良いが、世事に対する倍の能力を望みたい」と書き、特にオペラでは前述したグルック派とピッチンニ派の論争の中でモーツァルトの出る幕はないとも伝えたことが決定的になった。ちょうどザルツブルク宮廷のオルガン奏者のポストが欠員になっていることもチャンスととらえたに違いない。父親は直ちに行動を開始して不愉快なコロレド大司教に頭を下げ、好条件で復帰を認めてもらい、グリム男爵に息子に帰郷を促してほしい旨依頼したのだった。
 息子の方は、このような動きを薄々感じながらも、夏にロンドンから翌年のオペラの上演の相談の立ち会うためパリに来た旧師J・クリスチアン・バッハ(大バッハの末の息子)に思いがけなく再会できたことなどを楽しんでいたが、父からのこれ以上の借金を増やせないことからも早い帰郷を促す手紙や父からの要請を受けたグリム男爵の勧めが次第に頻繁になってきたこともあり、心が次第に傾きつつあったが、その自尊心の強さから直ちに了解というわけにはゆかなかった。しかし、グリムはしつこく帰国を迫り、ついにはいやいやながら9月中にパリを発ってストラスブールーミュンヘン経由で帰郷に向かわざるを得なくなり、最後に父にあて(アロイジアのいる)「マンハイムに立ち寄ってもよいかと」書いたのち出状をやめ、同月23日グリム男爵に急き立てられるように馬車で多くの挫折と屈辱を味わったパリを出立したのである。
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 グリム男爵が用立ててくれたストラスブール行きの馬車は(男爵が費用をけちるためとモーツァルトが疑うほどの)ひどい鈍行で、ついに途中の美しい都ナンシーで彼は急行馬車に乗り換えて旅行の中間地点であるストラスブールに着いた。ここはもうフランスの国境で、モーツァルトのファンの人々の要請もあってコンサートを3回も行い、思いがけず3週間もの長逗留をして故郷の父をイライラさせる。しかも、3つの演奏会の入りはガラガラで収入もほとんどなく当てが外れた格好となった。
 本来ここからシュトゥットガルト経由でミュンヘンに向かえというのが父の指示だったが、今や監督する人が誰もそばにいないことを絶好の機会と捉えたモーツァルトは、恋人アロイジアの待っているはずのマンハイムへ独断で飛んで行ってしまう。11月6日に到着するが、前回述べたように選帝侯カール・テオドールのバイエルン選帝侯就任に伴い、このとき多くの宮廷人は楽団も含めミュンヘンに去ってしまってアロイジア・ヴェーバーの一家も移転していたのである。それでも、楽長カンナビッヒの夫人は留まっており、家へ逗留させてくれるなど歓待してくれ、また顔見知りの人々は再会を大いに喜んでくれた。モーツァルトは極めて楽観的になり、11月12日に父に「マンハイムでもパリのような公開演奏会を計画している」とか「新作オペラ(歌のないセリフ付きメロドラマ)の依頼があるかもしれない」さらには「選帝侯が再び居城をマンハイムに置きその時には就職できるかもしれない」と書き送ったためついに大司教に平身低頭して息子の復帰を許可してもらい今か今かとイライラして帰りを待ちわびている父レオポルトにとっての驚きと怒りは頂点に達してしまった。11月19日付で父は「お前はマンハイムで就職したいんだって?就職だと?――それはどういう意味なのだ?−−お前はマンハイムでも、世界中のどこででも今は就職してはならぬ。――就職などという言葉は聞きたくないのだ。(略)お前のお母さんはパリで死ななくてはならなかったが、今度は私を死に追いやってそれがお前のせいにならなければよいのだが・・・(略)要するにだ!私はお前のために恥をかき借金を負ったままでは絶対に死にたくないのだ!借金は返さなくてはならない。この手紙を見たら、お前はさっさと出発するのだ!」しかし故郷へ戻りたくないモーツァルトはああだこうだ言ってマンハイムに留まったので、業を煮やした父は4日後にもう一通モーツァルトに手紙を書いて、アロイジアのことを認めようとか機会を見てイタリアにゆかしてあげようなどと良い条件を出したのでモーツァルトもついに重い腰を上げ12月9日に出立した。
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 モーツァルトは12月25日のクリスマスの夜にワクワクしながらミュンヘンに着き、早速ヴェーバー家を訪れ、泊めてもらうこととなった。ところがここミュンヘンでは同家の経済状況が大きく変わっていた。つい数か月前にはモーツァルトは恵まれない一家を助けようとおせっかいを焼いたのだが、ミュンヘンに移ったヴェーバー一家の生計は全く安定したものになっていた。アロイジアは「モーツァルトが発見したといっても良い」その才能が認められ、宮廷歌手として雇用されてかなりの年俸を受ける身になっており、父のフリードリンもそれなりの年俸を得ていて経済面でモーツァルトの出る幕は全くなかったし、彼女のために書いたアリア「テッサリアの民よ」を捧げられたアロイジア自身が、新進歌手として皆からちやほやされて、パリで就職できずうらぶれた形で現れたモーツァルトを、手のひらを反すようにいとも簡単に振ってしまったのだ。家族の前でひどく気まずい思いをし、傷心のモーツァルトはヴェーバー家を出て友人の楽員の家に泊めてもらい、年末に父親に「失恋してもはや泣くことしか出来ない」と書いている。しかし、故郷ザルツブルクで母のいない窮屈な生活を考え、また膨大な借金をしてまで旅に出してくれた父の期待に反して尾羽打ち枯らした姿で一人帰郷することは彼のプライドも許さなかったのであろうか、なお2週間余もミュンヘンに留まり続け、父をやきもきさせる。せっかく嫌なコロレド大司教に這いつくばるような形で、期待した以上の好条件での復職願いが聞き入れられて4か月も経ってしまっているのに、息子はいまだに帰郷せず、コロレドの怒りを買ってこれ以上面子をつぶされたくなかっただろうし、アロイジアに振られて自暴自棄になったモーツァルトが、また馬鹿なことをするかもしれないと懸念したに違いない。しかし肝心の息子は「僕は自分の名誉にかけて誓いますが、ザルツブルクとそこに生まれて住んでいる人たちが嫌いです。その言葉も生活様式も我慢できないのです・・・」などと書いて故郷に対する嫌悪感をあらわにしてミュンヘンを離れないでいたが、結局は父の厳命に従わざるを得ない。せめて最後の抵抗かあるいは一人で帰って怒られるのを恐れたためか、近くのアウグスブルクから例の気の合ったいとこののベースレ(父レオポルトの姪)をミュンヘンに呼び寄せて知り合いの馬車に2人で便乗して、1779年1月15日にザルツブルクで父親と涙の再会をしたのだった。
 この1年半近くにもわたる旅は、彼にとって就職やオペラを書くという本来の目的は達せらず、様々な仕事上での挫折や屈辱、プライヴェートな面では初恋や失恋に加え、母親の死という大きな悲劇を体験したが、今となってみれば、尊い人生の経験(修行)をし、それはこれからのモーツァルトの後半生の創作に反映され、多くの後世の人々の心の糧になるような作品を生み出してゆくことになって行く。
 なお、ミュンヘンのヴェーバ一一家は、アロイジアがウィーンの宮廷劇場に雇用されて、この79年の夏ウィーンに移住、他方モーツァルトは遅れて81年春にザルツブルク大司教と手を切って大司教のウィーンの館を追い出されるや再会したヴェーバー家に下宿した結果、アロイジアの妹コンスタンツェと恋仲になり、父親の大反対を強引に押し切って結婚してしまう。アロイジアは、ウィーンに出てきた直後、ヨーゼフ・ランゲという俳優と結婚、歌手として第1人者としての地位をサリエリの愛人のガブリエリと競い合ってウィーンの楽界を大いに沸かせ、モーツァルトのいくつかの名作オペラに登場することになるのだが、モーツァルトが帰郷した79年1月にはまだ誰もがこの事態を予想もしていない・・・

 



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