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第93回例会の内容紹介


ウィーン・ビーダーマイヤー・ゾリステンによるニュー・イヤー・コンサート

平成18年1月13日(金) 午後19時〜  鎌倉商工会議所会館ホールにて
 
出演
ウィーン・ビーダーマイヤー・ゾリステン
  ハンス・グレッツアー(第1ヴァイオリン)
  ヤン・エッカルト (第2ヴァイオリン)
  ファーシッド・ギラクウ(ヴィオラ)
  マリオ・ショット(チェロ)
ウヴェ・タイマー(ピアノ、友情出演


プログラム
 モーツァルト
♪ディヴェルティメント ニ長調 K.136
♪幻想曲  ニ短調  K.397
 ハイドン
♪6つのドイツ舞曲から第1、3、6番 Hob.IX,9 
 モーツァルト
♪3つのドイツ舞曲  K.605
 ベートーヴェン
♪コントルダンス  第1、3、5番 
 シューベルト
♪ドイツ舞曲  D.33
♪高貴なワルツから第4、5番 D.969
 ヨーゼフ・ランナー
♪モーツァルティステン 作品196
 ヨハン・シュトラウス(父)
♪中国人のガロップ 作品20
 フィリップ・ファールバッハ(父)
♪ラデツキー葬送行進曲 
 民謡(作曲者不詳)
♪クレムスのアルバムからティネアルの歌
 ヨハン・シュトラウス(父)
♪アンネン・ポルカ  作品137
 ヨハン・シュトラウス(子)
♪アンネン・ポルカ  作品117
♪ワルツ「春の声」  作品410
 ヨーゼフ・シュトラウス
♪ポルカ「女心」  作品166
 フィリップ・ファールバッハ(子)
♪ワルツ「ウイーンの情景」 作品213


当日のプログラムより

                               

曲 目 解 説    吉野忠彦

♪ディヴェルティメント ニ長調K.136(125a)

モーツァルトは、2回目のイタリア旅行から故郷に戻り、しばらく落ち着いて作曲に没頭できた1772年の初めに、続けて3曲のディヴェルティメントを書いている(K.136-138)。これらは、独墺ではよく「ザルツブルク交響曲」と呼ばれるが、当時のものとは異なって管楽器を一切使わず、コントラバスを含む弦楽五重奏の形を取っており、楽章も少ない3楽章形式であるのが特徴的である。イタリア風で明るく親しみやすいが、ザルツブルクでの友人ミヒャエル・ハイドンの機会音楽(ノットゥルナ)の影響も大きいと言われている。
本日演奏されるのは3曲の中の第1曲で一番有名なものであるが、モーツァルトの少年期の代表作と言っても過言ではないであろう。

♪幻想曲 ニ短調 K.397(385g)

 今日、ピアノの小品として非常に人気の高い曲であるが、残念ながら97小節が書かれたままの未完である上、作曲時期、全体の構想とも不明である。多数説では、ウィーンに定住した直後の1782年頃、ヴァン・スヴィーテン男爵の自宅でのバロック・前古典派の音楽の勉強の結果として書かれたのであろうとされる。ケッヒェルが1862年に作品目録を作成した時、既に自筆譜は消失しており、1804年の初版には「ピアノフォルテのための序曲ファンタジー W・A・モーツァルト作曲 遺作断片」と書かれている。他の作品(K.475や394)から類推すると、この後にソナタかフーガが続くとも考えられよう。全体は自由な3部形式(アンダンテ―アダージョ―アレグレット)を取っているが、現行では、初版から2年後に出た10小節を加えて完全終止をするミュラー版が演奏されることが多いようだ。

♪ウィーンの舞曲の歴史
 
 第3曲からプログラムの最後にかけては本日の出演者の十八番であるヴィーナームジークの歴史が示される。曲数が多数に上っているので、それぞれについては、口頭の説明でお許し頂くこととして、ここでは、その背景について触れておきたい。

 18世紀の後半、特にフランス革命の頃からウィーンではそれまで宮廷や貴族達の館を中心に楽しまれてきた音楽が、富裕な市民層や一般大衆のものへと広がって行く。それはダンス音楽の分野では、宮廷で踊られていたメヌエットがドイツ舞曲、コントルタンツといった踊りを経て遂に庶民にも愛好されるワルツに代わられて行った経緯として捉えられよう。ドイツ舞曲やコントルタンツは宮廷など上流階級のところでも踊られ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの大家もそれらを書いている。特にモーツァルトが晩年ヨーゼフ二世に任命された宮廷作曲家の任務が宮中舞踏会用の舞曲を作曲することにあったことは良く知られているところだ。

 ワルツは農民の3拍子の踊りレンドラーから出発したため、始めは上流階級から下品なものと蔑視されていたが、踊り方が極めて刺激的(!)なところから大流行し、次第に洗練されて遂には貴族階級をも征服して行く。既にモーツァルトの死後10年経った頃には、人口20万のウィーンで毎晩5万人が下町のダンスホールにいたという記録がある。(因みにモーツァルトがもう少し長生きしてワルツを書いたら?というのがウィンナワルツの始祖ランナーの曲「モーツァルトティステン」である)。

 1814-5年のウィーン会議は「会議は踊る、されど進まず」という言葉で有名だが、実は宮廷ではまだメヌエットやドイツ舞曲が中心だった。庶民的な生活をしていたベートーヴェンやシューベルトはワルツを書いているがそれらはごく短い簡単なものに過ぎず、本格的なウィンナワルツの誕生は1820年代後半のヨーゼフ・ランナーとそのライヴァルのヨハン・シュトラウス父の登場を待たねばならなかった。彼らが競い合いワルツを発展させた3月革命の起きる1848年までの平和な時期を独墺では「ビーダーマイヤー」時代―主役はメッテルニヒ宰相―と呼ぶが、以後、シュトラウスの息子3兄弟(ヨハン、ヨーゼフ、エドゥアルト)やわが国では余り知られていないフィリップ・ファールバッハ親子の活躍を通じ、ワルツはさらに洗練され、より大掛かりになって、遂には踊るよりは聴くためのコンサートワルツまで登場するようになった。また、ヨハン父の代には一般的であった、ワルツに対置する速い曲ガロップも息子のワルツ王の時代にはポルカに取って代わられたことも付言しておきたい。



出演者のプロフィール

ウィーン・ビーダーマイヤー・ゾリステン

 ウィーンのフォルクスオーパーの主席ヴィオラ奏者であった故ヴォルフガング・イェリネック(2004年3月28日死去)の提唱で、同オペラのメンバーを中心に結成されていたウィーン・オペラ舞踏会管弦楽団の弦のトップにより1990年に結成された。以来、毎年日本を訪問、6枚のCDも出し、国内外で高い評価を得ている。

ハンス・グレッツアー(第1ヴァイオリン)
 1928年生まれ。ウィーンでネメート教授に師事。17才でウィーン国立歌劇場の管弦楽団に入団、ウィーン・フィルのメンバー、27才でフォルクスオーパーのコンサートマスターに就任している。一昨年、ウィーン市よりその多大な功績に対し叙勲。 

ヤン・エッカルト(第2ヴァイオリン)
 スロヴァキア出身。ブラティスラヴァ音楽大学でガスパレール教授に学ぶ。1976年よりスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団、ブラティスラヴァ弦楽四重奏団のメンバー。
ファーシッド・ギラクウ(ヴィオラ)
 1952年テヘラン生まれ。1975年よりウィーン音楽院でバイエルレ教授等に師事、1979年以来フォルクスオーパー管絃楽団のメンバー。2004年、ヴォルフガング・イェリネックの死去に伴い、当アンサンブルに迎えられた。

マリオ・ショット(チェロ) 
 1955年ミュンヘン生まれ。シュトライヒャー、アウエルスベルクの両氏に師事。83年以来フォルクスオーパー管弦楽団のメンバー。

ウヴェ・タイマー(ピアノ、友情出演)
 ウィーン少年合唱団で音楽教育を受けた後、アカデミーで、作曲、指揮を勉学。ウィーン少年合唱団で指揮者を勤めた後、1975年以来、フォルクスオーパーで活躍。ウィーン・オペラ舞踏会管弦楽団の指揮者としても毎年来日。現在音楽大学で教授として後進の指導に当たっている。ヴィーナームジークの第一人者である。