| 第94回例会の内容紹介 |
平成18年3月19日(日)午後2時より 藤沢市民会館小ホール |
| 曲 目 解 説 |
「初夜権」という、国王や領主が持つ特権を、痛烈に揶揄攻撃したこのオペラの台本の原作は、1784年にパリで上演されたボーマルシェの芝居《フィガロの結婚−たわけた一日》である。フランス革命の前夜の民衆はこの作品に熱狂した。しかもこれの朗読会を非公開ながらルイ十六世臨席の下に実現したのが、王妃のマリー・アントワネットだったという話は面白い。 ルイ十六世は朗読を聞いている内に次第に不機嫌になり、「行きすぎだ、けしからん」と言い出し、第5幕のフィガロのモノローグにいたるや、椅子から飛び上がって「汚らわしい! 舞台にかけることはまかりならん!こんな危険な芝居を上演するのは、バスティーユを取り壊すのも同然だ」と叫んだという。 このオペラの台本を書いたダ・ポンテは「回想録」の中で、これをオペラにすることはモーツァルトが言い出したことだと述べている。ダ・ポンテには例えオペラに仕立て直しても皇帝が上演を許すかどうかという不安があった。それはモーツァルトとて同じだったろう。そこでダ・ポンテは、台本の作成と音楽の作曲を極秘の内に進めておき、チャンスをねらって劇場総裁か皇帝に見せるという作戦に出る。ダ・ポンテが一場面を書き上げると、モーツァルトがそれに音楽をつけるという風に進めて、6週間で完成したと「回想録」に書いている。しかしモーツァルトの「自作品目録」には1786年4月29日完成となっており、手紙その他の史料から判断すると、作曲は1785年10月末から始まり、11月にかけて集中的に行なわれたと思われる。 モーツァルトの幸運は、この時期、劇場に新作が無かったことである。チャンスを逃すなと私は誰にも告げずに皇帝のところへ出かけて行き、《フィガロ》を見せた。「なんということだ!」と皇帝は言われた。「お前も知っているように、モーツァルトは器楽の驚くべき作曲家だが、オペラはたった一つ書いただけだ(《後宮からの逃走》を指す)。それで十分ではないか」私は静かに答えた。「陛下のお恵み無しに私はウィーンで唯一つでもオペラを書いたでしょうか」「それはそうだ。しかし《フィガロの結婚》についてはドイツの劇団に上演禁止令をだしておる」と皇帝。「承知致しております。しかし私がオペラを書きまして上演されなかったものはございません。私は多くの場面をカットし、短くも致しました。そして陛下が御覧になる場面の優雅さと気品を損なわないように削り、縮めました。音楽も私が判断する限り、驚くべき美しさを持つものと思われます」「そうか、もしそうならば音楽についてはお前の趣味を信じよう。写譜に回せ」私はモーツァルトのところへ急いだ。しかし私が朗報を語り終えないうちに、皇帝の使いが、スコアを持って直ちに御前に出頭せよとの手紙を持ってきた。彼は命令に従って参上し、皇帝を大いに喜ばす様々な部分を演奏した。皇帝はすっかり満足したのだった。 この記述には無いが、皇帝は《フィガロの結婚》が、パイジェッロのオペラ《セヴィリアの理髪師》の後日譚であるところに興味を持ったのだろう。皇帝はこのオペラが好きで、何度も見ているからだ。モーツァルトも意識的にこの先行作品の登場人物に関連を持たせるように工夫しているのである。しかし二人の音楽を比較すればその密度の濃さは大きく違う。モーツァルトの作品の精妙な仕上がりは、一分の狂いもない。例えば作曲者自身が会心の出来としている第3幕第5景の六重唱を誰が作り得たであろう。運命の逆転を喜ぶフィガロ、スザンナ、バルトロ、マルチェリーナと、口惜しがる伯爵とドン・クルツィオとを同じ重唱の中に入れるという、殆ど不可能になることをやってのけているのである。 |