| 第99回例会の内容紹介 |
平成19年1月21日(日)午後2時より 鎌倉商工会議所ホール |
| 曲 目 解 説 |
モーツァルトは1781年に上演された≪クレタの王イドメーネオ≫(K.366)以降、オペラ・セーリア(正歌劇)は1曲も書いていない。彼のオペラ・ブッファ(喜歌劇)の傑作≪フィガロの結婚≫、≪ドン・ジョヴァンニ≫、≪コシ・ファン・トゥッテ≫がその後の10年の間に書かれたのに、オペラ・セーリアが書かれなかったのは、注文がなかったからである。 モーツァルトの最後の年である1791年になって、ようやくセーリアの注文が来た。セーリアはブッファと違って、宮廷での祝い事の出し物として上演される種類のものなので作曲料は高く、作曲者にとっては有難いものだった。筋書きは当然それにふさわしいものが選ばれる。当然、歴史的な物語から取られることが多い。≪皇帝ティトの仁慈≫はまさしくそうである。 モーツァルトに大変好意的だったヨーゼフU世が死んで後を継いだレーオポルトU世は、1790年10月9日フランクフルトで神聖ローマ皇帝としての戴冠式を行ったが、モーツァルトは随行に選ばれなかった。それで自費で行ったのである。後に≪戴冠式協奏曲≫と呼ばれるようになるK.537のピアノ協奏曲はこのとき自費で開いたコンサートで演奏されたが、収入はわずかだった。 レーオポルトU世はボヘミア王としての戴冠式をプラハで行うことになっていたので、モーツァルトは大きな期待をもっていた。なぜなら≪フィガロの結婚≫や≪ドン・ジョヴァンニ≫が最も歓迎されたのはプラハだったからである。 戴冠式の祝典オペラの作曲はウィーンの宮廷楽長のサリエリにゆだねられるはずだったのが、諸般の事情からモーツァルトにお鉢がまわってきたのである。彼はこの幸運を喜んだに違いない。しかし作曲の時間は非常に切迫していたのである。 台本は作曲依頼以前に≪皇帝ティトの仁慈≫に決まっていた。この台本は1734年にメタスタージョが書いたもので、すでに多くの作曲家にとりあげられていたものだった。制作のまとめを依頼された興行師グワルダゾーニはこの古びた原作は改定すべきものと考え、宮廷詩人のマッツォラに委嘱し、3幕を2幕にした。この段階でモーツァルトは作曲を依頼されたのである。それで彼はマッツオラの台本改定に関与したと思われ、「オペラにふさわしい改作」になったと評価している。彼は早速、合唱曲などを書いたが、アリアの作曲にかかるには歌手が決まらなくては出来ない。それで8月なかばになってようやくアリアの作曲にかかれたと考えられる。 モーツァルトがプラハに向かったのは8月25日と思われるので、実質の作曲時間は10日くらいだったのではなかろうか。彼は馬車の中でも仕事をしていたという。このオペラが異常なほどレシタティーヴォが多いのは、そのためと考えられ、弟子のジュスマイヤーに手伝わせたと言われている。モーツァルトに支払われた作曲料は200ドゥカーテン〈約230万円)で、≪フィガロ≫の初演料の2倍〈再演には追加が出る)だったが、このような無理が彼の体調に影響し、生命を縮めたと思われる。そのころ彼は≪魔笛≫の作曲にかかっており、レクィエムの作曲の依頼も受けいたのである。 彼は限られた時間の中で、アリアに新味を出すべく様々な工夫をこらしており、バセット・ホルンのような新しい楽器を使ったりしている。私には第1幕の方がドラマの進行と音楽がうまく合っているように思える。ことに第1幕の最後はこのオペラの最もすばらしいところだろう。 しかし第2幕は冗長と感じるところがある。初演を見たツィンツェンドルフ伯爵は「まことに退屈な芝居」と日誌に書き、皇妃のマリーア・ルイーゼは「お粗末な出来ばえのドイツ物」という酷評をしたという。 そのためもあってか、取り上げられることが少ない。今日視聴していただくものは、ローマの古代遺跡を舞台としてこの作品の背景をうまくだしており、オペラの舞台をみるというよりも、映画を見るようにして楽しめるだろう。 |