西暦年 |
年齢 |
月 |
記 事 |
1756 |
0 |
1 |
1月27日ザルツブルグに生まれる。 |
父、レーオポルト「ヴァイオリン教程」を出版。 |
1759 |
3 |
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クラヴィーアに3度の音をさぐり楽しむ。 |
1760 |
4 |
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父親の指導の下にクラヴィーアのレッスンを始める。 |
1761 |
5 |
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1月末か2月初め、初めて作曲を試みる(K1a,K1b) |
1762 |
6 |
1 |
1月〜2月、父および姉とミュンヘンに旅行。 |
9 |
9月〜翌年1月、一家でヴィーンに旅行。 |
1763 |
7 |
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レーオポルト、副楽長に就任。 |
6 |
一家を上げて、西方への大旅行に出発。ドイツ各地とベルギーを経て、11月、パリに到着、ショーベルトを知る。 |
1764 |
8 |
2 |
2月〜4月《クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ》(K6〜9)を出版。 |
4 |
英国に渡る。クリスティアン・バッハを知る。《ロンドン・スケッチブック》の小品を多数作曲。 |
1765 |
9 |
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《クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ》(K10〜15)を出版。シンフォニーの作曲を試みる(K16など)。 |
8 |
英国からオランダに移る。 |
1766 |
10 |
1 |
1月、ハーグからアムステルダムに赴く。 |
3 |
《クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ》(K26〜31)を出版。ベルギーを経てパリを再訪、11月に帰郷。 |
1767 |
11 |
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オラトリオ《第1誠の責務》(K35)を作曲、初めて書いた大曲である。最初の音楽劇《アポロとヒアチントゥス》(K38)を作曲。 |
9 |
ヴィーンに旅行。 |
10 |
姉とともに天然痘にかかる。 |
1768 |
12 |
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女帝マリア・テレージア、皇帝ヨーゼフ2世に拝謁。皇帝のすすめで、最初のオペラ・ブッファ《ラ・フィンタ・センプリチェ》(K51)を作曲。最初のジングシュピール《パスティアンとバスティエンス》(K50)を作曲。大曲《孤児院ミサ》(K139)を作曲し自ら指揮をする。 |
1769 |
13 |
1 |
帰郷。《ラ・フィンタ・センプリチェ》ザルツブルクで初演。 |
11 |
ザルツブルク宮廷楽団の無給のコンツェルトマスターになる。 |
12 |
父親と第1回のイタリア旅行に出発。 |
1770 |
14 |
1 |
ヴェローナで最初の演奏会。 |
2 |
ミラノでピッチーニ、サンマルティーニに会う。 |
3 |
ミラノのオペラ劇場のためにオペラを作曲する契約を結ぶ。最初の弦楽四重奏曲(K80)を作曲。ボローニャでマルティーニ神父を訪問。 |
4 |
ローマで秘曲《メゼレーレ》(アレグり作曲)を二度聴いただけで、完全に採譜する。 |
7 |
教皇より黄金拍車勲章を受ける。 |
10 |
マルティーニ神父より対位法の指導を受け、アカデミア・フェラルモニカの試験に合格、会員に推挙される。 |
12 |
最初のオペラ・セーリア《ポントの王ミトリダーテ》(K87)ミラノで初演。 |
1771 |
15 |
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ヴェローナのアカデミア・フェラルモニカから名誉楽長の称号を与えられる。 |
3 |
ミラノの劇場よりオペラの作曲を依頼される。マリア・テレージアよりフェルディナント大公の結婚式のための劇的セレナータの作曲を依頼される。三月末、帰郷。 |
8 |
父親と第二回イタリア旅行に出発。 |
10 |
《アルバのアスカーニョ》(K111)初演。 |
12 |
帰郷。大司教シュラッテンバッハ没。 |
1772 |
16 |
3 |
領主大司教にコロレード就任。 |
8 |
有給のコンツェルトマイスターに就任。年俸150フロリーン。 |
10 |
父親と第三回イタリア旅行に出発。 |
12 |
ミラノで《ルーチョ・シッラ》(K135)を初演。翌年にかけて26回上演される。 |
1773 |
17 |
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ミラノで就職運動失敗。3月帰郷。 |
7 |
父親とヴィーンに旅行。マリア・テレージアに拝謁。 |
9 |
帰郷。一家はハシニバル通りの家に転居。 |
10 |
《小ト短調シンフォニー》(K183)を作曲。最初のオリジナルのピアノコンチェルト(K175)を作曲。 |
1774 |
18 |
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《エジプト王タモス》(K345)の1部を初演。 |
9 |
ミュンヘンから依頼された《忍恋偽女庭師》(K196)の作曲開始。 |
12 |
父親とミュンヘンに出かけ、《忍恋偽女庭師》の最後の仕上げをする。 |
1775 |
19 |
1 |
《忍恋偽女庭師》ミュンヘンで初演。 |
3 |
帰郷。 |
4 |
《羊飼いの王様》(K208)初演。4月から5月にかけてヴァイオリンコンチェルトを5曲作曲。 |
1776 |
20 |
7 |
《ハフナーセレナード》(K250)初演。 |
9 |
マルティーニ神父にザルツブルクの教会音楽の状況を報告、《主のお憐れみを》(K222)を送って批判をこう。 |
1777 |
21 |
3 |
休暇願を出すも受理されず。 |
8 |
辞職願いを出し認められる。 |
9 |
母親とマンハイム=パリ旅行に出発。ミュンヘンにおける就職運動は失敗。 |
10 |
アウクスブルクを訪れ、従妹のマリア・アンナ・テークラ(バースレ)と知り合う。クラヴィーア製作者シュタインを訪ね、楽器を試奏する。月末マンハイムに到着。カンナビヒを訪ねる。多くの音楽家と知り合うが、就職には失敗。 |
12 |
バイエルン選帝候没し、プファルツ選帝候カール・テオドールがバイエルン選帝候に併任される。 |
1778 |
22 |
|
マンハイムでは喪に服すため音楽はしばらくの間とりやめとなる。マンハイムで知り合ったフリードリーン・ヴェーーバー家の次女アロイージアにひかれる。 |
3 |
パリに到着。グリム男爵を訪問。 |
4 |
《フルートとハープのためのコンチェルト》(K299)を作曲。 |
5 |
ヴェルサイユ宮殿のオルガニストの口があったが断る。 |
6 |
《パリ・シンフォニー》(K297)初演。大喝采を博す。 |
7 |
3日母、死去(58才) |
8 |
クリスティアン・バッハと再会。 |
9 |
パリを出発。 |
11 |
マンハイムを再訪。 |
12 |
ミュンヘンに到着、アロイージアを訪ねるが、失恋する。 |
1779 |
23 |
1 |
帰郷。宮廷オルガニストとして復職。(年俸450フロリーン) |
3 |
《戴冠式ミサ曲》(K317)を作曲。 |
9 |
ヴェーバー一家、ヴィーンに移り、アロイージア、ヴィーン・オペラと契約。 |
10 |
フリードリーン・ヴェーバー死去(46才)。 |
1780 |
24 |
5 |
《忍恋偽女庭師》のドイツ語版アウクスブルクで上演される。 |
9 |
シカネーダーと知り合う。 |
11 |
《イドメネーオ》の仕上げのためミュンヘンへ行く。 |
1781 |
25 |
1 |
《クレタの王イドメネーオ》(K366)が、ミュンヘン宮廷劇場で初演される。 |
3 |
コロレード大司教の命令でヴィーンに赴く。ヴェーバー家との交際再会。 |
4 |
大司教より帰郷命令下る。 |
5 |
ヴェーバー家に移る。再度、帰郷命令下り、大司教と決裂。ヴィーン定住を決意。 |
6 |
アルコ伯に尻を蹴られ、解雇状を受け取る。 |
7 |
シュテファニーより《後宮からの誘拐》の台本を受け取り、直ちに作曲を始める。 |
12 |
コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚したい旨を父に知らせる。王宮でクレメンティと競演。 |
1782 |
26 |
4 |
ヴァン・スヴィーテン男爵のサロンで、バッハ、ヘンデルなどの作品に接する。この頃よりフーガの習作を多く作曲。 |
7 |
《後宮からの誘拐》(K384)初演。大成功を収める。《ハフナー・シンフォニー》の初稿であるセレナードを作曲。 |
8 |
コンスタンツェと結婚。 |
12 |
いわゆる「ハイドンセット」の第1曲となった弦楽四重奏曲ト長調(K387)を完成。 |
1783 |
27 |
1 |
ダ・ポンテと知り合う。 |
3 |
ヨーゼフ2世臨席の演奏会で大成功を収める。 |
6 |
長男誕生。 |
7 |
妻とザルツブルクに父と姉を訪ねる。 |
8 |
長男死亡。 |
10 |
ザルツブルク聖ペトロ教会で、《ハ短調大ミサ曲》(K472)初演。ザルツブルクを出発リンツに到着。 |
11 |
《リンツ・シンフォニー》(K425)初演。 |
12 |
ヴィーンに戻る。 |
1784 |
28 |
2 |
「自作目録」の記入を始める。 |
3 |
ピアノコンチェルト(K449,450,451)の初演及びブルク劇場でのピアノ五重奏曲(K452)の初演はいづれも大成功。予約演奏会の予約者数174名に達する。 |
8 |
姉ナンネル結婚。 |
9 |
次男カール・トーマス誕生。グローセ・シューラー通りに転居。 |
12 |
フリーメースンに入団。 |
1785 |
29 |
1 |
ハイドンを自宅に招き、いわゆる「ハイドン・セット」の弦楽四重奏曲のうち三曲を披露する。 |
2 |
レーオポルドがモーツァルトを訪ね、ピアノコンチェルト(K466)の初演を聴く。ハイドンを自宅に招き、「ハイドン・セット」の残りの三曲を披露。 |
3 |
ピアノコンチェルト(K467)初演。 |
4 |
レーオポルドがフリーメーソンに入団。月末ヴィーンを発ち5月ザルチブルクに戻る。 |
6 |
ゲーテの詩によるリート《すみれ》(K467)を作曲。 |
1786 |
30 |
2 |
《劇場支配人》(K486)を初演。 |
3 |
ピアノコンチェルト(K488)を完成。 |
4 |
ピアノコンチェルト(K491)をブルク劇場で初演。 |
5 |
ブルク劇場で《フィガロの結婚》(K492)を初演、大成功を収める。 |
10 |
三男誕生、翌月死亡。 |
12 |
ピアノコンチェルト(K503)完成。 |
1787 |
31 |
1 |
妻とプラハに招かれる。この地では《フィガロの結婚》が圧倒的な人気を得ていた。国立劇場で《プラハ・シンフォニー》(K504)初演、大成功を収める。 |
親友ハッツフェルト伯爵死去。プラハの興業師より新作オペラの作曲を依頼される。 |
2 |
ヴィーンに戻る。 |
4 |
ラント通りに転居。この頃、弦楽五重奏曲(K516)、ロンド(K511)など短調の作品が多い。 |
5 |
28日、レーオポルド死去(67才) |
10 |
妻とプラハへ行く。《ドン・ジョバンニ》(K527)プラハ国立劇場で初演、大成功を収める。 |
11 |
ヴィーンに戻る。シェルター通りに転居。 |
12 |
帝室作曲家に任命される。長女誕生。 |
1788 |
32 |
2 |
ケルントナートール劇場は《後宮よりの誘拐》を最後に閉鎖される。この頃より経済状況悪化し、借金の申し入れの手紙が多くなる。 |
6 |
ヴェーリンガー通りに転居。長女死亡。シンフォニー第40番(K550)完成。 |
8 |
《ジュピター・シンフォニー》(K551)完成。 |
12 |
ブルク劇場での《ドン・ジョバンニ》公演に皇帝臨席。 |
1789 |
33 |
1 |
ユーデン広場に転居。この頃、舞曲の作品が多い。 |
3 |
ヘンデルの《メサイア》の編曲初演。 |
4 |
リヒノフスキー侯とプラハ、ドレースデン、ライプツィヒ、ポツダム、ベルリン、への旅行に出発。 |
5 |
ベルリンにおいて、プロシア王より弦楽四重奏曲6曲とピアノソナタ6曲の作曲を依頼される。 |
6 |
ヴィーンに戻る。 |
7 |
妻が重病にかかり、経済状況さらに悪化。 |
8 |
ブルク劇場で《フィガロの結婚》再演。 |
9 |
クラリネット五重奏曲(K581)を作曲。 |
10 |
ヨーゼフ二世より《コシ・ファン・トゥッテ》の作曲を依頼される。 |
11 |
次女が生まれたが、すぐ死亡。 |
12 |
舞曲の作品が多数作られる。 |
1790 |
34 |
1 |
《コシ・ファン・トゥッテ》(K588)ブルク劇場で初演。経済状態最悪となる。 |
5 |
弦楽四重奏曲(K589)完成。 |
7 |
ヘンデルの作品2曲を編曲。 |
9 |
フランクフルト・アム・マインに旅行。レーオポルト二世の戴冠式記念演奏会を開くが収益は僅か。 |
11 |
ヴィーンに戻る。 |
12 |
ザーロモンの招きでロンドンに向かうハイドンを送別。 |
1791 |
35 |
1 |
最後のピアノコンチェルト(K595)を完成。 |
1〜3月、宮廷舞踏会用の舞曲を多数作曲。 |
3 |
ベーアの演奏会でピアノコンチェルト(K595)を演奏、これが公式出演の最後。 |
5 |
聖シュテファン教会の副楽長(無給)に就任。シカネーダの注文による《魔笛》の作曲にかかる。 |
6 |
《アヴェ・ヴェルム・コルプス》(K618)を作曲。 |
7 |
レクイエムの作曲を依頼される。レーオポルト二世のボヘミア王戴冠式のためのオペラ《皇帝ティトの仁慈》の作曲依頼を受ける。四男フランツ・クサーヴァー誕生。 |
8 |
妻および弟子のジュースマイヤーとともに、プラハへ旅立つ。 |
9 |
《皇帝ティトの仁慈》(K621)を初演、評判は芳しくなかった。中旬にヴィーンに戻る。月末、《魔笛》(K620)初演。大好評のうちに続演された。 |
10 |
クラリネットコンチェルト(K622)完成。 |
11 |
フリーメイスンの礼拝堂完成を祝うカンタータ(K623)を指揮する。11月20日病床に就く。 |
12 |
ハンガリーの数人の貴族より年金の提供の申し出を受ける。12月5日、午前0時55分、死去。 |